メジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスでも二刀流で活躍する大谷翔平。
どんな両親の元で育ったのか気になるのではないだろうか?
ここでは大谷翔平の父親・徹についてみていこうと思う。
目次
大谷翔平の両親、父親・徹。年齢、出身、身長などのプロフィールは?高校時代の野球のエピソードは?右投げ左打ち?
大谷翔平の父親、大谷徹は1962年に岩手県北上市で生まれた。
大谷徹も社会人まで野球を続ける野球選手で、身長は182センチと大きく、大谷翔平と同じく右投げ左打ちだった。
岩手県立黒沢尻工業高校時代には、クリーンナップを任される左の強打者だったようだ。
大谷徹がプレイをしていた1970年代後半の岩手県の高校野球は、強豪が揃い非常にレベルの高い時代で、黒沢尻工業高校も強豪校の1つであった。
高校時代の具体的な成績は明らかになっていないが、注目される選手の1人ではあったのだろう。
プロのスカウトが視察に来たことはあったかもしれないが、具体的な話はなったとのこと。
子供の頃からプロ野球選手は憧れていて、プロ野球選手になりたいという気持ちはあったが、雲の上の存在で、手の届かない世界と感じていたようだ。
高校3年の夏の県大会が終わった時には、大谷徹は野球をやめようと思い、卒業後には普通に就職つもりだったようだ。
大谷翔平の両親、父親・徹。高校卒業後の進路とは?社会人野球に進んだ経緯とは?
野球を辞める決心をした大谷徹だが、秋になると再び野球をやりたいという思いが湧いてきて、高校の野球部の監督に相談したという。
黒沢尻工業高校のOBには社会人野球でプレイしている人が数名いた。
その先輩の伝手で最終的には横浜重工横浜に入社して社会人野球を続けることになった。
大谷徹は実は他にも社会人野球チームから声がかかったことがあったそうだ。
川崎製鉄千葉(現・JFE東日本)に所属していたOBが、3年生の夏の県大会前に練習に来てくれたことがあったそうだ。
その時に、卒業後は一緒にプレイしようと誘ってくれたそうだが、大谷徹は県大会終了後に野球を辞めることを決心したため、この誘いは断った。
その他、先輩の繋がりから地元岩手の新日本製鉄釜石の選考を受けるものの、時期が遅かったこともあり、採用にはならなかった。
大谷翔平の両親、父親・徹。社会人野球のエピソードや妻・加代子との出会いは?地元岩手への引っ越しから翔平の誕生へ。
社会人野球では、売りである俊足を生かして、打順は主に1番、2番、9番を任されることが多かった。
社会人野球は25歳まで続けた。
もう少し続けたい意思はあったとのことだが、出場機会の減少、怪我、チームにとって選手の入れ替え時期など、さまざま要素が重なって引退を決意した。
社会人野球を引退した大谷徹は、そのまま三菱重工横浜で勤務することとなった。
大谷徹は三菱重工横浜で社会人野球を行いながら、奥さんの加代子さんと出会い結婚する。
その後横浜で生活をしながら、長男と長女を授かる。
27歳の頃には関東自動車工業に転職した。
その後30歳前後の時に、地元である岩手に戻る決心をし、長女・結香(大谷翔平の姉)が10ヶ月の夏に、岩手県に引っ越しをした。
そして引っ越しから約1年後の1994年7月5日、3人目の子供で次男の翔平が誕生した。
まとめ
大谷翔平の父親、大谷徹も野球選手であった。
高校卒業後の進路は色々と迷ったようだが、もし一旦野球を辞める決心をしなかったら、川崎製鉄千葉で社会人野球を続けて可能性が高かっただろう。
そうしたら加代子とも出会わずに、大谷翔平は誕生しなかったかもしれない。
そう思うと人生とは不思議である。
大谷翔平は、父親が成し遂げられなかった夢を実現し、メジャーリーグに挑戦している。
まだまだ伸びしろのある大谷翔平がどこまで成長するのか、楽しみだ。
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