大谷翔平が野球をはじめたのは小学校2年生の時。社会人野球の経験がある父親の大谷徹と一緒に、水沢リトルリーグに加入した。
大谷は当時から野球の才能がずば抜けていた。ここでは大谷の小学校時代の伝説について紹介していきたいと思う。
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大谷翔平が野球をはじめたのは小学校2年生の時。父親の徹が監督の水沢リトルリーグ。
大谷が野球を始めた小学校2年生の時は、特別背が高いというわけではなく、周りより少し高いくらいだった。体つきも細く、ひょろっとした華奢なイメージ。ただ当時から足は速く、方は強かったそうだ。
大谷が水沢リトルリーグに入ると、間もなくして父親の徹が監督を務めることになった。監督として自分のこどもと接するのは難しい面も多かったようだが、野球をしている時は監督と選手という立場を考えるよう、言葉使いなどは教育していったという。
大谷にとっても、自分にとって一番大事だった時期は小学校と語っている。
大谷翔平、水沢リトルリーグではじめての全国大会を経験。
大谷は小学校時代に所属した水沢リトルリーグではじめて全国大会に出場する。野球をはじめた時から全国大会を目標に練習してきたため、達成した時の喜びは相当なものだったそうだ。
大谷は5年生の時は全国大会準優勝、6年生の時は全国大会ベスト4の成績を残している。負けた時はすごく悔しい思いをして、次は優勝してやろうという気持ちで練習に励んでいた。
最後の一年は必死で練習し、自宅の中でもずっとボールとバットを持っていたそうだ。野球のことを常に考えていれば、少しでも上達するのではないかと思い、常に野球に繋がることはないかと探していた。
大谷翔平、水沢リトルリーグで35本のホームラン。ホームランダービー(競争)では圧勝。
大谷がリトルリーグ時代に放ったホームラン数は35本。リトルリーグは12歳まで試合に出ることが可能なため、誕生日によっては中学1年生でも試合に出場するこどももいた。
岩手県内のホームランダービー(競争)に出場した時、大谷は小学6年生で他のチームは中学1年生が4番を打っていたが、その中でも圧倒的な結果を残している。他の選手が15スイング中最高でも3本しかホームランを打てなかったのに対して、大谷は15スイング中11本のホームランを放った。
試合でも大谷が打席に立つと、外野手は当然後ろにさがり、時には内野手までもが下がることがあったという。大谷の打球は強すぎで危なかったそうだ。小学校の時代から、大谷の野球センスは光っていた。
大谷翔平伝説まとめ
大谷翔平は小学校時代からずば抜けた野球センスの高さを発揮していた。ホームランダービーでの結果は相当すごいものである。
メジャーリーグ1年目はオールスター出場とならなかったが、是非来年はオールスター出場を勝ち取って、ホームラン競争に出場して欲しいと思う。
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